感情のコントロール
メモ的な記事
行動経済学ハマってるわけですが、
フレーミング効果を説明する文章の中で、
「合理的な人とは感情のない人ではなく、感情のコントロールが上手い人のこと」という一文があり、刺されたような気がした
感情のコントロールって苦手分野・弱点だなと思いました
関係あるかわかりませんが、戒めのためにもう一つ
以前、なんかのwebニュースで、
「怒りやすい人は自分のことを実際よりも賢いと見積もっている傾向がある」みたい一文を見て、これも刺された!と思った
俺のことだ!と
自分が賢くて偉いと思ってるから、ちょっとしたことで怒りやすくなるんだよね
そう言われるとよく理解できる
特になんか失敗したわけではないですが、今年は怒らない一年で居られるよう気を付けます!
完璧主義からの脱却
私は緩めの完璧主義者だと思うのですが、最近はより緩くなるべきと考えています。
最近見直している自分の生活習慣についてや、読書の仕方についても、どうしても完璧主義的な性格では不都合が多いわけです。
以前も書いたかもしれませんが、「所詮人間主義」をイマイチド思い出す必要があるのかもしれません
所詮人間なんで、低い方に流れていくし、楽をしたいと考えるし、快楽を優先するし、自分が一番かわいいと考える
そんなもんだよねと
でもそれはネガティブな意見ではなく、柔らかい物の見方だと思うのです
「落語は業の肯定」なんて立川談志の言葉を思い出します
所詮人間だと思えば、他者にも自分にも優しくなれるでしょ?
中学生の時、部活の顧問が筋トレに対して、
「100回テキトーに腕立てやるなら、1回きちっと腕立てやった方がいいぞ」と言ってましたが、
人生においては、テキトーな腕立てでも続けることが大正義。
きっちりやっても1回で終わるんじゃ何の意味もないと思うわけです。
経済人
最近、行動経済学って面白いなぁと思って色々と読み漁っていたのですが、
その中でよく経済人という言葉が出てきます
経済人という言葉については、初見だった(学生時代に教わっていたのかもしれないけど、忘れてる)だったので少し驚きでした
というのも、経済人の指す意味と同じ概念についてよく考えていたからです
経済人とは、経済合理性を判断の最重点として行動する人間(実在しない、最も賢く最適な行動をする人間)といった具合の意味です
行動経済学は、人間ってみんなバカだから、合理的な行動ができる人なんかいないよ
感情の生き物なんだから、消費行動に伴う感情・心理をきちんと理解しようねという学問です
全ての人が経済人であれば、株価の値動きは想定することができるようになるし、躊躇なく皆が皆損切りできるし、ブランドなんて概念は成立しなくなるし、人間の営業マンは無価値になるし、
こんなに面白くない市場はないわけです
売る側も買う側も経済人ではなく、愚かな感情の生き物だからこそ、マーケットの動きは誰にも予想がつかず、面白いのだと思います
さて、そんな経済人の話ですが、
意図的に必要な場面で経済人になることは経営者にとって大切な素養ではないかと考えます
感情によって自らが生み出した企業理念・夢・目標達成の為、敢えて経済人として判断・行動していく
そんな行動指標もあっていいんじゃないかと思いました
知識の深さと幅
私の考える優秀な人は総じて知的好奇心が強い方たちです。
そういう人たちとは話をしていて楽しいし、勉強になります。色んなことを教えてもらえるので、こちらから少しでもお返ししようと必死に相手が知らなさそうな話をしてみたり。
知的好奇心が強い人を何故優秀かと思うかについて、これは優れた判断力を持っているからだと思います。
優れた判断力に欠かせない要素は、知識の深さよりも幅が大事なのではないかと思うのです。
知識の深さというのは誰でも何かのプロとして働いている以上、受動的に得られるものです。
誰でも、ある専門分野においては自動的に知識の深さは得られると考えています。
しかし、幅となるとそこには能動的な行動が必要です。
その、能動的な行動力の源泉が知的好奇心であると思うのです。
この発想の原点になっているのは、医師免許の話です。
ガチガチに書いちゃうと長くなるので、簡単に書きますが、
医者って専門科を標榜して、多くの医師は生涯一つの専門科でドクター人生を生きていくのに、医師免許を取るときは全ての専門科の勉強をさせられるんです。
それは、隣接する領域の知識がなければ正しい判断が下せないということであり、専門性に特化していれば良いということではないってことらしいです。
絶対的な幸せと相対的な幸せ
私の価値観ですが、幸せは絶対的な幸せと相対的な幸せに分類されると思っています。
多くの幸せは相対的な幸せに分類されると思っていて、例えばお給料が高いというのは相対的な幸せであると思うわけです。
何を基準に高いのかと言えば、もちろん周囲の人たちと比較してということになりますし、例えば一流企業の管理職である貴方がいて、同級生は皆経営者クラスであれば、世間的には成功していても、同窓会では劣等感を感じることでしょう。
一例として給料というものを取り上げましたが、その他にも、自分のパートナーの美しさや、美味しい食べ物や、自分の乗っている車のカッコ良さなど例を挙げればキリがありません。
私たちが日頃から追いかけている幸せ(だと思い込んでいるもの)は多くの場合相対的なものであると思うのです。
ですが、中には稀に絶対的な幸せもあります。
私の場合、自分の子供は絶対的に可愛いもので、例えばモデルの子供たちが通う幼稚園に我が子が入園したとしても、
「あっちの子の方が可愛いな。うちの子供と交換してくれないかな」とは思わないわけです。
その他にも、1人で黙々と楽しめることは絶対的な幸せであると思っています。
誰かとシェアしなくたって十分に楽しめるもの(私の場合、良書だったり、映画だったり)は、周りの人から時間の無駄だのとこき下ろされようがお構いなしで幸せなのです。
自分にとって、絶対的な幸せが何なのか、今一度噛み締めると人生の価値観は少し変わるんじゃないかと思います。
職人さんって職業による絶対的幸せの探求者だなーと最近しみじみと思います。
営業の話
セールスのテクニックは、自分なりに積み上げてきたものがありますのでそのことについて。
ただ、後輩とか他の営業マンに敢えて話すのは小っ恥ずかしいし、テクニック論をひけらかす人というイメージを持たれたくないので、こちらに書いておきます。
あくまで、自分の振り返りの意味と備忘録として
・営業マンの立ち位置
営業はお客様と会社の間に立つ職種です。
この立ち位置というのは、会社から教わることではないので、自分で気付かないと非常に苦労するポイントかと思います。
売れない営業はこの立ち位置が非常に極端で、
①会社に寄りまくった立ち位置
・社内のルールを遵守しすぎて、顧客と条件が合わず取引に発展しない。例えば、決められた値引率を遵守しすぎてしまうなど
・会社から指示された商材を全力で売ろうとする(お客様にその商品がフィットするかまで考えが及んでいない)
など、真面目な人に多い印象
②お客様に寄りすぎた立ち位置
いわゆる御用聞き。極端な顧客第一主義。
・顧客要望は必ず従う、変な忖度をする
・お客様にお願いや交渉を持ちかけられない
・足元見られがち
ある程度の数字はあげられるが、あと一押しという場面に弱い。何故なら、お客様にお願い・交渉の手が使えないから。
自信がなかったり、気の弱いタイプが陥りがち。
といった具合に、営業マンの立ち位置はどちらに寄りすぎても良くないものです。
では、どの辺りを目指して立ち位置を設定すれば良いのかというと、
私はいつも、真ん中より少しお客様寄りの立ち位置を目指しています。
お客様を0、会社を100としたら、40くらいの位置。
なので、顧客の意見はよく聞いて同意を示すが、無理なものは無理だと突っぱねる。
言いにくいことは全部会社と上司のせいにします。
「いやー、お客様の言ってることは個人的には全く同意見です!すごくわかります!ただ、うちの会社がわかってくれなくて、、、 会社の代表として情けないです。申し訳ありません」みたいな感じです。
大体返しは、
「〜さんは悪くないから、しょうがないよ」で落ち着きます。
あとは、値引きの交渉も敢えて大袈裟に、「お客様のために、上司と戦ってきます!」ということをアピールしたりもします。
・助かりますを使う
ある程度営業をやっている人間なら、困ったときに頼れる、悪くいうと自分のいいなりになるお客様を持っているはずです。
数字が足りない時や、売りにくい商材を会社から押し付けられた時などに、こういうお客様を頼る、使う営業マンは多いでしょう。
私はこういうお客様に助けられた時は必ず、「ありがとうございます」ではなく、「助かります」を意識的に使うようにしています。
・ふんわりOKを出したら、すぐ仕留める
全てお客様が、「じゃあ買うわ!」とハッキリ意思を示してくれるわけではありません。
「これなら、まあ、いいかなー」とか、
「この中だと、この商品は結構いいかも」といったOKなのか、それともまだ迷っているのか微妙な発言をするお客様も多いです。
そういう時は即座に「ありがとうございます!じゃあ、いついつの納品で手配して大丈夫ですか?今月数字厳しかったのでホント助かります!」みたいな感じですぐに畳み掛けるようにしています。
お客様が自分で結論を出せるまで待って、良かった試しはあまりないもので。
・値引き交渉の締め
商談において、値引きは重要な要素です。
値引きしすぎると自分の成績に響いたり、会社から怒られたりしますし、
かといって値引きしなさすぎると、そもそも契約にならないというバランス感覚が非常に問われます。
なので、営業マンはここが値引きの限界ですというのをお客様にうまく伝える必要があります。
私がよく使うのは、値引き以外のサービスを提案するというものです。
商材にも寄りますが、
例えば、まだ値引きのバッファはあるがこれ以上安い値段で売りたくないと思った際、お客様が「あと少しだけなんとかならないの?そしたら決めるからさ」と追撃をかけて来た時は、
「いや、ほんとにもう値引き限界なんで、あと出来るとしたら送料サービスするくらいです」とか、
「値引きと同等額の消耗品をおまけするくらいしか出来ません」とかいって、
値引きは限界だから違うところでサービスしますよという提案をします。
結構これは効果抜群で、お客様からしたら、
「よっしゃ、限界まで値引きを引き出してやったぞ」となるわけです。
商談を楽しむタイプの社長相手には特に効きます。
また、機会あれば別のテクニックも記録するかもしれません。
続くかも。
宗教とは何か
私がこの1年、自分なりに研究して考えて出した、一個人の意見です。
自分の信じる宗教を持つ人にとってはあまり面白くない意見にもなり得るので、拙い一個人の勝手な考えと受け止めていただければと思います。
Q.宗教とは何か?
A.(残酷な)現実世界を受け入れる為の説明原理である
一言で表すと難しい表現になってしまうので、噛み砕いて説明していきます。
宗教というのは、世の中にたくさんあるわけです。
大きな組織だと、キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・仏教、そしてそこから宗派が別れたり、新興宗教が登場したり、とにかく無数にあるわけです。
それこそ、宗教という概念がなかった時代からキリスト教他の歴史的な宗教は存在していました。
土着の信仰や建国神話もそれぞれありました。
誰かが、宗教を作ってくれと頼んだわけでもないのに発生したわけです。
また、今みたいに世界中が繋がっていない時代、既に神は世界中に存在していたわけです。
隣の国の神話を聞いて、「じゃあうちの国にも神話を作るか」という発端ではなく、各地で神話は生まれました。
示し合わせたわけではないのに、世界中の人々が神を求めて神話を作り始めたわけです(作るという表現は適切ではないかもしれませんが)
これは何を意味しているのか?
私の結論は、人間が神を求めたから。それも、本能的なレベルの欲求として。
では、神を求める人間の欲求とは何か?
それが説明原理だと思うのです。
私たちは、プラスの事象とマイナスの事象、良いことと悪いことが並べられると悪いことの方にフォーカスしてしまう性質を持っています。
良い話と悪い話があるけどどっちから聞きたい?と訊かれると、悪い話からお願いしますというのが人間の心理ではないでしょうか?
良い話から先に聞くと、後から来る悪い話を聞いてからじゃないと素直に喜べない。
それなら、先に悪い話を聞いてしまった方が良い話を楽しめるんじゃないかと誰しも考えるはずです。
さて、気を抜くとネガティブになってしまうのが人間という生き物なわけですが、先に申し上げた悪い話は何を指した言葉だったのか
それは、理由なき残酷な現象であると思うのです。
この辺りの説明が難しいのですが、
人間にとって恐ろしいこととは、因果関係の見えない現象です。
例えば、幽霊が恐ろしいのは発生のメカニズムが分からない・目的がわからないからですし、初対面の人が苦手なのは相手に対する情報が不足しているからです。
私たちは知らないものに恐怖を覚えるようで、知らない・理解できないものに囲まれると大きなストレスを抱えます。
今でこそ、雷や火山の噴火は科学的に発生のメカニズムが解明されつつありますが、大昔の人々にはとても行き着くことのできない、不思議な現象だったことでしょう。
そういった、よくわからない恐ろしい現象を、よくわからないまま受け止められるほど私たちの心は強くないのです。
よくわからないまま抱え続けられるほど、私たちの心はストレスに強くないと言い換えると分かりやすくなるでしょうか?
つまり、よくわからない現象を受け止める為に、それらの現象を説明する為に生み出された説明原理が宗教であると思うのです。
では、視点を変えて、現代において宗教は必要か?
科学の発展した現代では、大昔に神の仕業とされていた火山の噴火や地震のメカニズムが解明されてきました。それは宗教に頼らなくても説明が可能になってきたということでもあります。
そうなってくると、科学力の高い現代では宗教は不要では?という仮説にたどり着くわけですが、果たしてそうでしょうか?
たしかに、科学を以って証明できることは増えましたが、依然説明出来ないことも沢山あります。
例えば、科学の力を用いても神の存在or存在しないことを証明することは出来ません。
これだけ科学の発展した現代においても、やはり説明原理としての宗教は必要なのだと思います。
仏教は宗教ですが、儒教は宗教ではありません。
日本人の道徳観は儒教がベースとなっていますが、儒教の教えには死生観がありませんので宗教ではないのです。
先程の科学で証明出来ないことに、死についても加えましょう。
死とは何か、それも未だわかっていません。
死後の世界があるのか、地獄や天国があるのか、輪廻転生するのか、最後の審判は訪れるのか。
死とは何かわからない、だから怖い。
でもみんないずれ死ぬから、逃れることはできない。
説明不可能で正体はわからないが、必ず自分に降りかかる。これほど恐ろしいことがあるでしょうか?
それらを説明し、理由やメカニズムを説いてくれるのが現代における宗教の最大の意義です。
その理屈の正確性は証明できないですが、何かしらの理屈がないことには恐怖で夜も眠れません。
311で津波にのまれて亡くなられた方は何か悪い行いをしたから天罰が下ったんでしょうか?
交通事故で亡くなられた人たちはどういう理屈で死ななくてはいけなかったのでしょうか?
現実は、ただその時その場に居合わせたからに過ぎないという大変残酷なものです。
その事実をダイレクトに受け止めるのはあまりにも辛い。それが自分の大切な人であれば尚更。心が壊れてしまうほどに。
現実は残酷で救いのないものですが、それらに理屈をつけて、前を向いて生きていけるようにしてくれるのが宗教という人類の作り出したシステムだと私は思います。
きっとあの世で元気にやってるとか、生まれ変わったとか、そういう風に思えた方が、残酷な現実を受け止められるはずです。
そういった精神の救済システムなんだと私は結論付けます。