したためノート

自分の考えをまとめる為、思った時に思ったことをしたためています

田舎の会社

田舎企業に勤めるメリットについて最近思うところがあります。

あくまでも当社は、という話です。

 

比較的、若いうちに結婚する人が多い、というより殆どのように思います。

私は東京で働いていたので田舎にいたから結婚が早かった、という例には漏れますが、理由を想像するに人に会うことが困難なので寂しさを感じやすいという点が挙げられると思います。

 

東京にいた頃は、平日だろうが仕事が終われば頻繁に飲みに行っていましたし、誰かに会いたいと思えばLINEですぐに約束を取り付けることが出来ました。

そういう状況だったからか、今の会社はとにかく飲み会が少ないように感じました。

週一回飲みに行くのですら、多いと言われてしまうほどです。

回数が少ない分、いざ今夜は飲み会となると昼間っから皆楽しみにしている様子で、この光景は以前の会社では見られなかったように思います。

 

そんな感じで飲みにいきにくい環境だと、仕事を終えて自宅に帰ると、一人暮らしは尚更寂しさを感じやすい環境が「整っている」と思います。

これが結婚を早める理由の一つになっているのではないかなと。

事実、東京は結婚の平均年齢が他の地方よりも遅いようです。

デメリットのように見えて、ある種強制力のあるメリットなのかもしれません。

以前も書いたかもしれませんが、「定期預金」のように好きな時にお金を引き出せないことはデメリットのように思えて、その実は人間の弱い意思をコントロールする強制力を与えてくれているような感じ。

 

当社の場合は特に終業時刻を厳密に守ろうとする傾向が強く、殆どの社員は定時には退社します。

前の会社でなかったもので、「終礼」という文化があり、これは良いものだなと思いました。

一応説明しておくと、定時になると鐘が鳴り、朝礼ならぬ終礼を行います。終礼を終えたら5分だけ皆で掃除して退勤するという流れなのです。

前の会社では朝礼はありましたが、終礼というのはありませんでした。

出勤時間はしっかり管理するのに、帰る時間の管理は雑でした。

 

終礼の良さは、

①ここからは残業ですよというのが明確になること

②周りの人が帰らない、偉い人が帰らないから帰りにくいというのを感じさせないこと

この2点です。

①は本当に残業をするべき価値がある仕事かを考える機会を与えます。

②は有害な雰囲気を破壊してくれます。当社の役員は定時になったら誰よりも早く帰って、ゴルフの練習に向かうのです。

 

そんな感じで飲み会は少ないし退勤も早いので、子供が産まれてもなるべく一緒にいられる時間を確保できそうなのは大きなメリットに思います。

 

追記:会社の敷地に従業員が勝手に野菜を植えて、勝手に水やり当番を決め、野菜の成長過程をネタに談笑したり、

会社の近くで捨てられていた子猫を拾ってきて、業務時間中に子猫用の哺乳瓶を買いに走ったり、そういう風土があるのは素晴らしいことに思いました。

これがホントのEnjoy to the little thingだなーと幸せを感じています。

悪人

最近、夏目漱石の「こころ」を読んでいます。

その中の一文で、

 

「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
だから油断ができないんです。」

 

という言葉が私の中に引っかかりました。

 

確かに、純粋な悪人というものはこの世に存在していないのでしょう。

テロリストも自分と大切な家族が食べていくことに困りさえしなければ発生し得ないんだろうと私は思っています。

 

「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるように、礼節や道徳というものは生活の基盤があった上で獲得できるものなので、衣食が足らないという経験のない私たちにはそういった別世界のことは理解し難いことなのかもしれません。

礼節や道徳を学べるということは、大変贅沢なことであるということに私たちは気付く必要があるのだと思います。

 

「こころ」からそんなことを考えていたわけなのですが、そんな私が新たに惹かれた本が、

 

殺人者はいかに誕生したか―「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く―(新潮文庫

 

臨床心理士の著者と凶悪事件の加害者との面談が記されている本です。

この著書は、大悪人・凶悪人を「理解」することにフォーカスして、彼らが罪を犯すに至った背景を読み解こうとしています。

 

長谷川博一 - たすけて!私は子供を虐待したくない

同じ著者の作品で、タイトルに非常に惹かれたのですが、まだ手に取れてはいません。

 

このタイトルに表れている通り、加害者が犯した罪は決して許されるものではありませんが、その一方で加害者も角度を変えれば被害者であることを主張されています。

殺人や虐待を犯した人は過去に親から虐待を受けた経験があり、その時に誰からも救ってもらうことが出来なかった。そういった過去と犯した罪に相関関係がないとは言い切れない。もし、殺人者が過去に受けた虐待を誰かが止めることさえ出来れば、このような凄惨な事件は起こり得なかったのではないだろうか。といった体です。

 

長谷川博一さんは性善説を信じて、加害者と接しているとおっしゃられています。

性善説:全て人間は善の心を持って生まれてくるとする説。逆にいえば、悪の心とは後天的なものであり、悪の芽生えるロジックが分かれば悪の発生に抗えると考える説)

 

私も性善説を信じています。(というか信じたい)

そう思っていながらも、凶悪犯罪、凄惨な事件・事故の前では強い感情に煽られ、信じたい性善説をどこかに吹き飛ばして、加害者は根っからの悪人であるという視点を持ってしまいがちです。

報じられたニュースのようなえらく間接的なものですら、性善説を吹き飛ばしてしまうほど弱い私から見れば、著者がどれほど強く人間の善を信じているのか想像すらつきません。

 

向けられた敵意に対して、同じように敵意で返してしまう辺り私はまだまだ未熟です。

 

と、そんなことを最近は考えております。

知的好奇心旺盛な人は、素敵な人だと思う

私は知的好奇心旺盛な人が好きです。そういった人を評価しますし、自分もそうありたいと思います。

 

私がいつまでも子供らしくありたいと願っているのは、きっと子供のように知的好奇心旺盛なまま、素直に吸収していける精神を保ちたいという想いから来ているのだと思います。

 

以前も書いたことですが、かつての上司が人間偉くなったと思ったら終わりと言っていたことについて、

「自分は偉い。自分は世の中のことを知っている」と思ってしまった時点でその人の学びは止まってしまうという教訓を与えてくれたと思います。

 

知的好奇心が旺盛であるということは、世の中に興味があると言い換えられると思うのです。

だからこそ、いわゆる勉強らしい勉強という形の学びでなくても、旺盛な人というのは自分をモルモットにして実験を繰り返し、新しい知を吸収していくことができるのだと思います。

 

その逆に、実験を躊躇う臆病者がいることも知っています。私自身、そうなることもあります。

臆病で勇気がないということは、興味がないということなのでしょう。

そんなことばかりの人だと、どうしても知的好奇心が薄いと評価せざるおえなくなってしまいます。

 

知的好奇心を持って獲得した知は教養と呼ぶべきものだと思います。

教養ある人と会話をすることは私に新しい知識や価値観を与えてくれますし、私の咄嗟の質問に対して、積み上げた教養の一部を私に分け与えてくれるような回答をしてくれます。

そういう人と今後も付き合いを続けていきたいと思います。

松竹梅から見るニッチな気遣い

僕が将来やりたいことの1つで、ホテル経営があります。

世界中の美しい景色を望める土地でホテルを営もうという野望なわけです。

 

その目的として、お客さんに「また来たい」と思わせることはある種、生きるモチベーションを与えることに等しく、それは僕自身が経験から思うことなわけです。

 

そして、日本人ほどホテルスタッフに向いている民族も珍しいんじゃないだろうかという思惑もあります。

世界の人より、日本人が一番優しさ、思いやりで優れているというわけではなく、ニッチな気遣いにおいてはなかなかに素晴らしい感性を持った文化ではないかと思うのです。

 

例えば、松竹梅というランク付けにおいて、松=特上、竹=上、梅=並のように使用されています。松竹梅の元ネタは中国に起因していますが、ランク付けは日本独自の文化です。

 

元ネタとなる歳寒三友(中国の松竹梅が描かれた画題)には松が一番上で、梅が一番下などの上下関係というものはありませんでした。

 

この松竹梅ランクは、遊郭において遊女のランク付けに用いられたことから一般に普及したと言われています。

お客様が「並」と注文して、それを聞いた他の客に「あの客は並しか頼めない程度の甲斐性なのか」思われないよう、恥を欠かせないために松竹梅の呼称を使用し始めたもののようです。

なんとニッチな気遣いでありましょうか。

 

そして、松竹梅の呼称が一般化してくると、梅を注文すると「あの客は梅しか頼めない程度の甲斐性なのか」となってしまうので、今度は松と梅を入れ替える店も現れる始末。

もはや、行き過ぎた親切。お節介レベルのニッチな気遣いです。

しかしながら、この感性こそサービス業には抜群に効くと思うのです。

それも、他国文化の中でそのサービスレベルを提供出来ればコントラストが効いて抜群に映えると思います。

 

そんな素晴らしい文化でいつか商いを行えることを夢見ております。

賢い人ほど口数が少ない

と思います。

私はまだまだおしゃべりで、伝えたいことを伝えるのにたくさんの言葉と長い時間を必要としています。そういうところが未熟だなと思うわけです。

 

貞観政要の本を最近読んでおり、帝王学・リーダー像について考えたりするのですが、その時に寡黙さこそリーダーの重要な素質なんだろうと思うわけです。

 

私は祖父を稀代の名経営者として尊敬しています。

彼は高卒でありながら(学歴はあまり関係ありませんが)、非常に聡明で勉強家であり、一生勉強を掲げ、87になった今でも企業分析と投資を続けています。

 

そんな祖父はとにかく寡黙な人で、基本的にはじーっと人の話を聞いているわけです。

そして、話す時は一言、二言。

それで会話が完結します。

 

自分の言葉の重さをよく理解している人の立ち振る舞いだなと思えます。

 

友人や家族であれば、話たいことを話したいように、快楽的な会話に興じることは心のバランスの為に良いことですが、ある程度立場を持つとそういった振る舞いを控える必要が出てくるのでしょう。

特に仕事上付き合いのある人と飲みにいく時は気を付けなくてはと思います。

 

沈黙は金、雄弁は銀という言葉がありますが、これは話すという行為の素晴らしさの裏には快楽性と中毒性も備わっていて、そのことを忘れない為の教訓に私には思えます。

与えられてきたと思う

妻が妊娠しました。

引越して少し落ち着いてきたので、そろそろと思っていました。

そう考えて、すぐに妊娠が発覚し、やっぱり私にはそういう性質があるんだなと思いました。

いつも、本当に欲しいものは与えられてきたように思います。

 

他にも大したことではないのですが、今まで妻と共働きで生活していたのが私1人で働く形になったので金銭的に非常に苦しくなっていました。

カードの支払いとかそろそろ厳しくなってきたなーと思っていたら、翌日口座のお金が急に増えていました。

退職金の存在をすっかり忘れていたわけで、しばらくはお金のことは心配しなくていいなと。

この時も、こういう性質だなと思いました。

 

今までの人生で友人や、上司や、色んなチャンス、一見不幸な出来事に思えても結果から見ると実は幸運だった出来事等々。

いつも私は必要なものを与えられてきたように思います。

自分で獲得したわけではなく、与えられたと思うのです。ピンチの時は思いがけないところからいつも救われています。

 

今は手ぶらでもそのことに不安はなく、ピンチの時、本当に必要な時はきっとまた与えられるんだろうと思っているわけです。

そんな謎の自信が自分の行動哲学にはあるように思います。

制限がある方が面白い

私は仕事中に遊ぶのが好きです。

それは、大した遊びではなく、休日にやるんじゃつまらないけれども仕事中にやると面白く感じるのです。

 

ショーシャンクの空にという映画の中で、主人公が刑務官にうまく取り入って、ビールの差し入れを得ます。

そして囚人たちが刑務所の中でビールをうまそうに飲むというシーンがあります。

 

刑務所の外で飲んでもそこまでおいしく感じられなかったであろうビールを、あそこまでおいしそうに飲めるのは、刑務所という制限があるからこそです。

味覚が、感覚が研ぎ澄まされ、次はいつ飲めるかわからないビールの味を全身で受け止めようと味わっていることでしょう。

 

そんな感じで、私は制限があるからこそ面白さを感じる神経・感性が鋭利になると思いますし、制限・ルールがあるから工夫を凝らす・凝らすことができるのだと思います。

 

全くの自由では面白さを生み出すのはなかなか難しいものだと思うのです。

0を1にするよりも、1を2にする方が楽チンです。

土台がなくては工夫もアイディアも生まれません。