したためノート

自分の考えをまとめる為、思った時に思ったことをしたためています

平均寿命と最高寿命

私がよくお客さんにする話で、平均寿命と最高寿命というのがあります。

面白い仮説だねと割と評判が良いものなので、書いてみようと思います。

 

平均寿命というものは、目覚しく上昇しております。

日本においては、80歳を越えていますし、世界的に見ると餓死者などが減った関係から著しく伸びているわけです。

しかしながら最高寿命はと言いますと、

ギネス記録によると122歳らしいのですが、これは1997年に亡くなられた方のお歳なわけです。

つまり、ここ23年、この方の生まれから換算すると150年ほど最高寿命は記録更新が止まっているということです。

 

医療技術の進歩が目覚しい昨今ですが、平均寿命は伸びているのに最高寿命は伸びない。

これは不思議な現象のように思えます。

 

改めて考え直してみると、私の中で一つの仮説が思い浮かぶわけです。

 

人間とは、肉体だけの存在ではなく、精神も合わさって人間と呼べる存在になる。

当たり前ですが、見落としていました。

医療技術はハード(肉体)を治す技術が進歩してきましたが、ソフト(精神)を治す技術という方向では進歩していないのではないか?

 

そう考えると、辻褄が合うような気がしました。

 

122歳という最高寿命は肉体の限界というわけではなく、精神の限界による到達点ではないか?と私は仮説付けるわけです。

 

一昨年までヘルスケア産業に私は携わっていたので、これでいうところのハード部門になるわけです。

今の私は人間の精神に関わる産業におりますので、ソフト部門に転向となったわけですが、壮大なテーマとして人間の最高寿命への挑戦が一つ目標として掲げられなくはないかなと思います。

 

122歳になっても、まだまだ生きて現世を楽しみ続けたいと思えるような世の中になれば、また最高寿命も伸びるんじゃないかな?と

 

数年前からQoLなんて言葉が医療業界でも使用されるようになりました。

クオリティオブライフの略語ですが、ハードの治療だけではなく、その後の患者の人生を豊かにする治療・処置を施しましょうという思想です。

ソフトの重要性に少しずつ気付いていければ、もう少し世の中よくなるのかな、なんてお話でした。

歳を取る

私たちの社会システムは基本的に年功序列がベースとなっています。それは儒教の教えによる文化的な背景や、みな均一に歳を取るという公平(?)性、年齢という明確な基準がある為に上下の判断が容易など様々な要素があって浸透したものだと思います。

 

しかしながら、私の姿勢としては、年長者は経験の量からして敬うべき存在と認識しているものの、自分が年長者の立場である場合は決してあぐらをかいてはならないと危機感を持つべきだと思っているのです。

 

年齢・時間は平等に流れておりますので、同級生はいつまでも同級生のままなわけですが、

同窓会なんかをするとそれぞれ社会的地位が違っていたり、結婚していたり、子供がいたり、あるいは亡くなっていたりと人生のステージは全く平等に進んでくれないというのは、残酷ながら事実であるわけです。

 

歳を取るということは、一般的な解釈をすれば時間の経過を刻むということです。時間さえ経過すれば、ただ生きてさえいれば勝手に年長者になっていくのです。

しかし、私にとって歳を取るということは、年長者として相応しい人間性を積み重ねていくことだと思っております。それは時間に等倍で比例するわけではなく、人によって倍速で進んだり、他の人の半分の速度で進んだり、場合によっては後ろに進むなんてこともあるものだと思うのです。

 

繰り返しになりますが、私にとっての「歳」というものは、時間の経過によって自動的に与えられものではないと思うわけです。

なるべく早く歳を取ることがより良い視点を自分に備えさせる手段だと信じているわけです。

 

だってそうでしょう?

おじいさんになってから「身体がもっと元気なら〜したかった」と思うより、

内面を先におじいさんにしてしまえば、

身体が元気なまま、おじいさんになれるのです。

そしたら、「身体はまだ元気だから〜するか」と実行できるわけです。

その方が幸せだと思いませんか?

 

そんな自分焦らせる幸福論に突き動かされて、日々生きているわけです。

今年は、転職してコミットメントの高い職業になり、はじめての子供も生まれて、住む場所も変わり、人間関係も大きく変わり、去年から大きく変化のあった一年でした。

多少は歳を取れたのかなと思います。

プレゼントとお土産の美学

プレゼントとお土産を選ぶ時、自分なりの考える軸があります。

もちろん、どちらも受け取った相手に喜んでもらうことが大前提ではあるのですが。

 

プレゼントは、相手の頭にないものを選ぶのが基本だと思っています。

予定調和的、事前打ち合わせされたプレゼントは例外として、サプライズを提供しようと思ったら、相手の知らないものや自分じゃ買わないだろうなというものを贈るのがベストであると思うのです。

とはいえ、そんなこと簡単に言っても難しいと思われがちですが、よくやるのは、

自分用には買わない・使えないような高級品を選ぶのがベターであると思います。

高級品といっても、数万数十万といった金額の話ではなく、

その商品にしては高い価格帯という意味です。

例えば、1万円のシャンプーとか。

昔、会社の先輩の奥さんが出産で入院した際、毎日洗髪してもらえないので、たまの洗髪くらい良い香りのシャンプーでリフレッシュしてもらいたいと思って1万円のシャンプーを贈りました。それは本当に喜んでもらえたのを覚えています。

 

逆に、私があまり好きじゃないのはカタログギフト。

正直、選ぶのはすごく疲れます。その面倒な判断を贈られた側に押し付けているようで好きではないのです。

 

 

お土産は必ず消耗品にします。

正直、お土産ってのは他人の思い出でしかないので、形として残り続けるものはNG。

思い出のある人とない人とでは品物の見え方が全く異なります。

だから、食べ物だったり、入浴剤的なものだったり、消耗品がベターな選択だと思うのです。

 

というのが、贈り手としての私の美学です。

人生の楽しみは緩急に見つけたり

人間は、慣れる生き物です。

苦しいことに慣れるのは素晴らしい機能ですが、嬉しいことに慣れるのは少し邪魔な機能です。

 

最近サウナにハマっているのですが、その魅力は?と訊かれると、緩急であると思うのです。

熱さと冷たさを交互に体験する緩急こそ、サウナの醍醐味です。

 

私は長期の連休があまり好きではありません。休みの前半は楽しいのですが、後半はどうしてもだれてしまうので、連休を楽しみきることが出来ません。

長期の連休を取る機会があるなら、中間地点で一度思い切り仕事をした方が、後半の休日も楽しめるので好きです。

 

妻とは毎日会わない方がちょうど良いと思います。

共働きの時は、休日が重なることが稀でしたし、仕事の時間帯の違いから一緒に住んでいても何日か顔を合わさない日というのもありました。

寂しいような気もしますが、適度に会わない方が、会える時間・一緒にいる時間を大切にするように思います。

 

人生を楽しむコツは緩急に見つけたり。

私にとっての幸せは1日と同じ日が来ないこと。毎日違う状況と仕事に恵まれ、退屈しないこと。

だから外回りが好きなのかもしれません。

愛とは、向ける対象以外には、ときに残酷なのだ。


「愛とは、向ける対象以外には、ときに残酷なのだ。」

と記事の中の一文が引っかかりました。

 

確かに、愛情を持つということは、それ以外とに差を付けることなのかもしれません。

 

昔、親友と友達を仕分けるってのは残酷なことだと思ったのを思い出します。

拗ねる

受け入れることはとても大切なことに思います。

 

問題の前で拗ねてしまっては、自体は一向に解決しないと、そう知ってはいても、大人になっても、拗ねてしまう人は沢山いるもんだなとよく思うのです。

 

 

拗ねるというと、子供の抵抗手段の一つとして連想してしまいます。

 

オモチャが欲しいけれど、親に買ってもらえない

ご飯を食べないなどの方法で親を困らせる

 

オモチャを買ってもらえないことと、ご飯を食べないことは何の関係もありませんが、この方法は全く効果がないかというと、あながちそういうわけでもない。

 

親は子供に対して強い関心を持っていますので、一見無意味なこの抵抗手段を親は無視することが出来ないのです。

この抵抗から、直接オモチャを買ってもらう結果に結びつくこともあるかもしれませんし、間接的に「この子はそんなにオモチャが欲しいのか」と解釈して何らかの条件を提示してくれるような結果もあるかもしれません。

しかしながら、親以外の相手に拗ねるということは、一切効果のない抵抗だと知る必要があります。

 

親以外に通用しないのは、それほどあなたに興味を持っていないからです。

我が子以上に関心を持つ他人というのは、そうそう在りません。

そんな当たり前のこと、誰しも理解出来ているようで出来ていない。だから問題の解決を後回しにして、感情の消化に夢中になって拗ねてしまうのではないかと思います。

 

世間は感情では動かないと早く知ってほしい。

と、新入社員を見てて思ったわけでした。

田舎の会社

田舎企業に勤めるメリットについて最近思うところがあります。

あくまでも当社は、という話です。

 

比較的、若いうちに結婚する人が多い、というより殆どのように思います。

私は東京で働いていたので田舎にいたから結婚が早かった、という例には漏れますが、理由を想像するに人に会うことが困難なので寂しさを感じやすいという点が挙げられると思います。

 

東京にいた頃は、平日だろうが仕事が終われば頻繁に飲みに行っていましたし、誰かに会いたいと思えばLINEですぐに約束を取り付けることが出来ました。

そういう状況だったからか、今の会社はとにかく飲み会が少ないように感じました。

週一回飲みに行くのですら、多いと言われてしまうほどです。

回数が少ない分、いざ今夜は飲み会となると昼間っから皆楽しみにしている様子で、この光景は以前の会社では見られなかったように思います。

 

そんな感じで飲みにいきにくい環境だと、仕事を終えて自宅に帰ると、一人暮らしは尚更寂しさを感じやすい環境が「整っている」と思います。

これが結婚を早める理由の一つになっているのではないかなと。

事実、東京は結婚の平均年齢が他の地方よりも遅いようです。

デメリットのように見えて、ある種強制力のあるメリットなのかもしれません。

以前も書いたかもしれませんが、「定期預金」のように好きな時にお金を引き出せないことはデメリットのように思えて、その実は人間の弱い意思をコントロールする強制力を与えてくれているような感じ。

 

当社の場合は特に終業時刻を厳密に守ろうとする傾向が強く、殆どの社員は定時には退社します。

前の会社でなかったもので、「終礼」という文化があり、これは良いものだなと思いました。

一応説明しておくと、定時になると鐘が鳴り、朝礼ならぬ終礼を行います。終礼を終えたら5分だけ皆で掃除して退勤するという流れなのです。

前の会社では朝礼はありましたが、終礼というのはありませんでした。

出勤時間はしっかり管理するのに、帰る時間の管理は雑でした。

 

終礼の良さは、

①ここからは残業ですよというのが明確になること

②周りの人が帰らない、偉い人が帰らないから帰りにくいというのを感じさせないこと

この2点です。

①は本当に残業をするべき価値がある仕事かを考える機会を与えます。

②は有害な雰囲気を破壊してくれます。当社の役員は定時になったら誰よりも早く帰って、ゴルフの練習に向かうのです。

 

そんな感じで飲み会は少ないし退勤も早いので、子供が産まれてもなるべく一緒にいられる時間を確保できそうなのは大きなメリットに思います。

 

追記:会社の敷地に従業員が勝手に野菜を植えて、勝手に水やり当番を決め、野菜の成長過程をネタに談笑したり、

会社の近くで捨てられていた子猫を拾ってきて、業務時間中に子猫用の哺乳瓶を買いに走ったり、そういう風土があるのは素晴らしいことに思いました。

これがホントのEnjoy to the little thingだなーと幸せを感じています。