悪人
最近、夏目漱石の「こころ」を読んでいます。
その中の一文で、
「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
だから油断ができないんです。」
という言葉が私の中に引っかかりました。
確かに、純粋な悪人というものはこの世に存在していないのでしょう。
テロリストも自分と大切な家族が食べていくことに困りさえしなければ発生し得ないんだろうと私は思っています。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるように、礼節や道徳というものは生活の基盤があった上で獲得できるものなので、衣食が足らないという経験のない私たちにはそういった別世界のことは理解し難いことなのかもしれません。
礼節や道徳を学べるということは、大変贅沢なことであるということに私たちは気付く必要があるのだと思います。
「こころ」からそんなことを考えていたわけなのですが、そんな私が新たに惹かれた本が、
殺人者はいかに誕生したか―「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く―(新潮文庫)
臨床心理士の著者と凶悪事件の加害者との面談が記されている本です。
この著書は、大悪人・凶悪人を「理解」することにフォーカスして、彼らが罪を犯すに至った背景を読み解こうとしています。
同じ著者の作品で、タイトルに非常に惹かれたのですが、まだ手に取れてはいません。
このタイトルに表れている通り、加害者が犯した罪は決して許されるものではありませんが、その一方で加害者も角度を変えれば被害者であることを主張されています。
殺人や虐待を犯した人は過去に親から虐待を受けた経験があり、その時に誰からも救ってもらうことが出来なかった。そういった過去と犯した罪に相関関係がないとは言い切れない。もし、殺人者が過去に受けた虐待を誰かが止めることさえ出来れば、このような凄惨な事件は起こり得なかったのではないだろうか。といった体です。
長谷川博一さんは性善説を信じて、加害者と接しているとおっしゃられています。
(性善説:全て人間は善の心を持って生まれてくるとする説。逆にいえば、悪の心とは後天的なものであり、悪の芽生えるロジックが分かれば悪の発生に抗えると考える説)
私も性善説を信じています。(というか信じたい)
そう思っていながらも、凶悪犯罪、凄惨な事件・事故の前では強い感情に煽られ、信じたい性善説をどこかに吹き飛ばして、加害者は根っからの悪人であるという視点を持ってしまいがちです。
報じられたニュースのようなえらく間接的なものですら、性善説を吹き飛ばしてしまうほど弱い私から見れば、著者がどれほど強く人間の善を信じているのか想像すらつきません。
向けられた敵意に対して、同じように敵意で返してしまう辺り私はまだまだ未熟です。
と、そんなことを最近は考えております。
知的好奇心旺盛な人は、素敵な人だと思う
私は知的好奇心旺盛な人が好きです。そういった人を評価しますし、自分もそうありたいと思います。
私がいつまでも子供らしくありたいと願っているのは、きっと子供のように知的好奇心旺盛なまま、素直に吸収していける精神を保ちたいという想いから来ているのだと思います。
以前も書いたことですが、かつての上司が人間偉くなったと思ったら終わりと言っていたことについて、
「自分は偉い。自分は世の中のことを知っている」と思ってしまった時点でその人の学びは止まってしまうという教訓を与えてくれたと思います。
知的好奇心が旺盛であるということは、世の中に興味があると言い換えられると思うのです。
だからこそ、いわゆる勉強らしい勉強という形の学びでなくても、旺盛な人というのは自分をモルモットにして実験を繰り返し、新しい知を吸収していくことができるのだと思います。
その逆に、実験を躊躇う臆病者がいることも知っています。私自身、そうなることもあります。
臆病で勇気がないということは、興味がないということなのでしょう。
そんなことばかりの人だと、どうしても知的好奇心が薄いと評価せざるおえなくなってしまいます。
知的好奇心を持って獲得した知は教養と呼ぶべきものだと思います。
教養ある人と会話をすることは私に新しい知識や価値観を与えてくれますし、私の咄嗟の質問に対して、積み上げた教養の一部を私に分け与えてくれるような回答をしてくれます。
そういう人と今後も付き合いを続けていきたいと思います。
松竹梅から見るニッチな気遣い
僕が将来やりたいことの1つで、ホテル経営があります。
世界中の美しい景色を望める土地でホテルを営もうという野望なわけです。
その目的として、お客さんに「また来たい」と思わせることはある種、生きるモチベーションを与えることに等しく、それは僕自身が経験から思うことなわけです。
そして、日本人ほどホテルスタッフに向いている民族も珍しいんじゃないだろうかという思惑もあります。
世界の人より、日本人が一番優しさ、思いやりで優れているというわけではなく、ニッチな気遣いにおいてはなかなかに素晴らしい感性を持った文化ではないかと思うのです。
例えば、松竹梅というランク付けにおいて、松=特上、竹=上、梅=並のように使用されています。松竹梅の元ネタは中国に起因していますが、ランク付けは日本独自の文化です。
元ネタとなる歳寒三友(中国の松竹梅が描かれた画題)には松が一番上で、梅が一番下などの上下関係というものはありませんでした。
この松竹梅ランクは、遊郭において遊女のランク付けに用いられたことから一般に普及したと言われています。
お客様が「並」と注文して、それを聞いた他の客に「あの客は並しか頼めない程度の甲斐性なのか」思われないよう、恥を欠かせないために松竹梅の呼称を使用し始めたもののようです。
なんとニッチな気遣いでありましょうか。
そして、松竹梅の呼称が一般化してくると、梅を注文すると「あの客は梅しか頼めない程度の甲斐性なのか」となってしまうので、今度は松と梅を入れ替える店も現れる始末。
もはや、行き過ぎた親切。お節介レベルのニッチな気遣いです。
しかしながら、この感性こそサービス業には抜群に効くと思うのです。
それも、他国文化の中でそのサービスレベルを提供出来ればコントラストが効いて抜群に映えると思います。
そんな素晴らしい文化でいつか商いを行えることを夢見ております。
賢い人ほど口数が少ない
と思います。
私はまだまだおしゃべりで、伝えたいことを伝えるのにたくさんの言葉と長い時間を必要としています。そういうところが未熟だなと思うわけです。
貞観政要の本を最近読んでおり、帝王学・リーダー像について考えたりするのですが、その時に寡黙さこそリーダーの重要な素質なんだろうと思うわけです。
私は祖父を稀代の名経営者として尊敬しています。
彼は高卒でありながら(学歴はあまり関係ありませんが)、非常に聡明で勉強家であり、一生勉強を掲げ、87になった今でも企業分析と投資を続けています。
そんな祖父はとにかく寡黙な人で、基本的にはじーっと人の話を聞いているわけです。
そして、話す時は一言、二言。
それで会話が完結します。
自分の言葉の重さをよく理解している人の立ち振る舞いだなと思えます。
友人や家族であれば、話たいことを話したいように、快楽的な会話に興じることは心のバランスの為に良いことですが、ある程度立場を持つとそういった振る舞いを控える必要が出てくるのでしょう。
特に仕事上付き合いのある人と飲みにいく時は気を付けなくてはと思います。
沈黙は金、雄弁は銀という言葉がありますが、これは話すという行為の素晴らしさの裏には快楽性と中毒性も備わっていて、そのことを忘れない為の教訓に私には思えます。
与えられてきたと思う
妻が妊娠しました。
引越して少し落ち着いてきたので、そろそろと思っていました。
そう考えて、すぐに妊娠が発覚し、やっぱり私にはそういう性質があるんだなと思いました。
いつも、本当に欲しいものは与えられてきたように思います。
他にも大したことではないのですが、今まで妻と共働きで生活していたのが私1人で働く形になったので金銭的に非常に苦しくなっていました。
カードの支払いとかそろそろ厳しくなってきたなーと思っていたら、翌日口座のお金が急に増えていました。
退職金の存在をすっかり忘れていたわけで、しばらくはお金のことは心配しなくていいなと。
この時も、こういう性質だなと思いました。
今までの人生で友人や、上司や、色んなチャンス、一見不幸な出来事に思えても結果から見ると実は幸運だった出来事等々。
いつも私は必要なものを与えられてきたように思います。
自分で獲得したわけではなく、与えられたと思うのです。ピンチの時は思いがけないところからいつも救われています。
今は手ぶらでもそのことに不安はなく、ピンチの時、本当に必要な時はきっとまた与えられるんだろうと思っているわけです。
そんな謎の自信が自分の行動哲学にはあるように思います。
制限がある方が面白い
私は仕事中に遊ぶのが好きです。
それは、大した遊びではなく、休日にやるんじゃつまらないけれども仕事中にやると面白く感じるのです。
ショーシャンクの空にという映画の中で、主人公が刑務官にうまく取り入って、ビールの差し入れを得ます。
そして囚人たちが刑務所の中でビールをうまそうに飲むというシーンがあります。
刑務所の外で飲んでもそこまでおいしく感じられなかったであろうビールを、あそこまでおいしそうに飲めるのは、刑務所という制限があるからこそです。
味覚が、感覚が研ぎ澄まされ、次はいつ飲めるかわからないビールの味を全身で受け止めようと味わっていることでしょう。
そんな感じで、私は制限があるからこそ面白さを感じる神経・感性が鋭利になると思いますし、制限・ルールがあるから工夫を凝らす・凝らすことができるのだと思います。
全くの自由では面白さを生み出すのはなかなか難しいものだと思うのです。
0を1にするよりも、1を2にする方が楽チンです。
土台がなくては工夫もアイディアも生まれません。
科学信仰
私たちの国は無神論者・無信仰者が多数を占めております。
私も含めてですが、神や仏の存在を本気で信じている人々を、おかしいとか、怖いだとか、頭が悪いんじゃないかと見てしまう傾向があるように思います。
事実、世界三大宗教の信者数だけで40億人。イスラム20億、キリスト16億、仏教4億。
ヒンドゥー教で11億。
この時点で世界人口の過半数以上は信仰の対象を持っていることになります。
また、そのほかにも自然信仰や各地の土着信仰などを含めれば、無信仰者というのは本当にごく僅かな少数派であるとなるわけです。
さて、無信仰者は世界的に少数派であるのですが、何故彼ら多数派は神の存在を信じることができるのでしょうか?
私は信仰について真に理解しているわけではありませんが、それは当たり前であり、疑うものではないという前提によって支えられているのではないかと考えています。
彼らは生まれた時からイスラムやキリストが家庭にあり、周りの人たちにあり、そこから外れるという発想すら浮かばないのではないかと思うのです。
例えば、私たちは空気のない場所で生きていくことはできません。
空気の構成が8割の窒素と2割の酸素とその他諸々であるということを知っていますが、実際に今吸っている空気がこの本当にこの比率なのか、何か不純物が混ざっていないか、本当に空気なのかということは知り得ないわけです。
これは知識として知っていても証明が難しい。つまり、知っているというよりは「そう信じている」という状態です。
しかしながら、私たちは今吸っているものが空気以外のものだろうか?などという疑問すら持たずに、所詮信じているだけのことを当たり前の、世の理であると思い、生きているのです。
彼らにとって、神の存在というのはこのようなものではないかと私は考えています。
死後の世界があり、神が存在すること。
今吸い込んでいるものは空気であること。
この2つはどちらも当たり前のことで、どちらも証明することは難しい。
空気については、現代の科学で本気を出せばリアルタイムに吸い込んでいるものを空気と判別することは出来なくはないかもしれませんが、神の存在は証明できていません。
しかし、現代の科学で神の存在が証明できないからといって、神が存在しないことを証明したことにはならないのです。
神の有無すら証明できない、我々の科学がまだまだ未熟なだけの話です。
科学的根拠という言葉は非常に説得力がありますが、科学というのは未だ完全ではなく、世の理・因果関係を説明しきれるものではありません。
それを信じ込んでしまうのは、科学信仰と言えるのかもしれません。
追記
私は健康・医療というのは宗教に近いなとよく思います。
やはりそれも、あらゆる治療法や長寿の秘訣など科学的に証明されていなくても何となく良さそうと思い込んでしまう部分に近似性を感じているのかもしれません。
それもまた、疑はないという前提に支えられていることなのでしょう。