勉強することは偉いことなのか
偏屈なテーマです。
私は意識高い系にはなりたくないと思っているわけですが、意識高い系の人たちと同じように少なからず興味のある本を読むくらいはしているわけです。
どのようにすれば彼らと差別化出来るのか、そもそも意識高い系とはどういった人たちか、といったことを整理していきたいと思います。
意識高い系とは
主体性を持って学ぶことは大変素晴らしいことと思います。
しかし、「意識高い」ではなく、「系」なのです。
意識が高い様に見えているだけの人という意味合いです。
さて、その中身について考えてみると、
・学ぶ目的が保身である
→学ぶことで学ばない人を見下すことを目的とする。下を見て自分はセーフティゾーンに立っていると安心したい。
・学ぶ目的がない
→流行に敏感でバズワード・横文字が大好き。学びは活かさねば無価値ですが、目的なく活かすことは出来ないわけです。ただし、目的を探すことを目的にして広く浅く学ぶという手法は全く別です。
・何の専門家でもない
→流行には敏感であるものの、深く追求はしていかないので専門性がありません。何かのプロになり切れないといったところでしょうか。
この3点が大きな要素ではないかと思うわけです。
とても格好悪いなぁと見えていて、自分はそうなりたくはないと思います。
意識高い系との差別化
「意識高い系」の言葉が存在する罪は、学ぶこと自体そのものが格好悪いことであるかのように感じられてしまうというものでしょう。
しかしながら、目的を持って主体的に学ぶことは素晴らしいことです。
上記で挙げた3点の特徴を否定できれば意識高い系ではないと思いますが、
もう一つ差別化に重要な要素として、
コミュニケーションの中毒性に侵されていないことです。
人間は、共有に喜びを見出します。
しかし、共有の為のコミュニケーションは非常に中毒性が高いものです。
「個」を持たない人はコミュニケーションの中に自分の価値を求めます。
ですが、自分の価値を決め得るのは、自分しかいないわけです。
自分のことを100%理解し得るのは自分以外ありえないわけで、評価できるのも自分しかありえないわけです。
つまり、無意味に群れるなってことです。
「勉強することは偉いことなのか」とタイトルに書きました。
私は何ら偉いことではないと思います。
自分の為に行う活動は偉い・偉くないの尺度で測れるものではありません。
ご飯を食べることや眠ることと同じで、偉いとか偉くないとかそんな尺度で測るものではないと思っています。
ましてや、勉強はしなくても生きていけるので、食事や睡眠よりもよっぽど贅沢な活動であると思っています。
主体的に学ぶ人は興味を持つ才能のある人です。
対象はなんであれ、興味を持つ才能のある人の話は面白いものです。
そういった人と私は付き合っていきたいと思っています。
コミュニケーション中毒については、書きたいことがあるので別記事にします。