与えられてきたと思う
妻が妊娠しました。
引越して少し落ち着いてきたので、そろそろと思っていました。
そう考えて、すぐに妊娠が発覚し、やっぱり私にはそういう性質があるんだなと思いました。
いつも、本当に欲しいものは与えられてきたように思います。
他にも大したことではないのですが、今まで妻と共働きで生活していたのが私1人で働く形になったので金銭的に非常に苦しくなっていました。
カードの支払いとかそろそろ厳しくなってきたなーと思っていたら、翌日口座のお金が急に増えていました。
退職金の存在をすっかり忘れていたわけで、しばらくはお金のことは心配しなくていいなと。
この時も、こういう性質だなと思いました。
今までの人生で友人や、上司や、色んなチャンス、一見不幸な出来事に思えても結果から見ると実は幸運だった出来事等々。
いつも私は必要なものを与えられてきたように思います。
自分で獲得したわけではなく、与えられたと思うのです。ピンチの時は思いがけないところからいつも救われています。
今は手ぶらでもそのことに不安はなく、ピンチの時、本当に必要な時はきっとまた与えられるんだろうと思っているわけです。
そんな謎の自信が自分の行動哲学にはあるように思います。
制限がある方が面白い
私は仕事中に遊ぶのが好きです。
それは、大した遊びではなく、休日にやるんじゃつまらないけれども仕事中にやると面白く感じるのです。
ショーシャンクの空にという映画の中で、主人公が刑務官にうまく取り入って、ビールの差し入れを得ます。
そして囚人たちが刑務所の中でビールをうまそうに飲むというシーンがあります。
刑務所の外で飲んでもそこまでおいしく感じられなかったであろうビールを、あそこまでおいしそうに飲めるのは、刑務所という制限があるからこそです。
味覚が、感覚が研ぎ澄まされ、次はいつ飲めるかわからないビールの味を全身で受け止めようと味わっていることでしょう。
そんな感じで、私は制限があるからこそ面白さを感じる神経・感性が鋭利になると思いますし、制限・ルールがあるから工夫を凝らす・凝らすことができるのだと思います。
全くの自由では面白さを生み出すのはなかなか難しいものだと思うのです。
0を1にするよりも、1を2にする方が楽チンです。
土台がなくては工夫もアイディアも生まれません。
科学信仰
私たちの国は無神論者・無信仰者が多数を占めております。
私も含めてですが、神や仏の存在を本気で信じている人々を、おかしいとか、怖いだとか、頭が悪いんじゃないかと見てしまう傾向があるように思います。
事実、世界三大宗教の信者数だけで40億人。イスラム20億、キリスト16億、仏教4億。
ヒンドゥー教で11億。
この時点で世界人口の過半数以上は信仰の対象を持っていることになります。
また、そのほかにも自然信仰や各地の土着信仰などを含めれば、無信仰者というのは本当にごく僅かな少数派であるとなるわけです。
さて、無信仰者は世界的に少数派であるのですが、何故彼ら多数派は神の存在を信じることができるのでしょうか?
私は信仰について真に理解しているわけではありませんが、それは当たり前であり、疑うものではないという前提によって支えられているのではないかと考えています。
彼らは生まれた時からイスラムやキリストが家庭にあり、周りの人たちにあり、そこから外れるという発想すら浮かばないのではないかと思うのです。
例えば、私たちは空気のない場所で生きていくことはできません。
空気の構成が8割の窒素と2割の酸素とその他諸々であるということを知っていますが、実際に今吸っている空気がこの本当にこの比率なのか、何か不純物が混ざっていないか、本当に空気なのかということは知り得ないわけです。
これは知識として知っていても証明が難しい。つまり、知っているというよりは「そう信じている」という状態です。
しかしながら、私たちは今吸っているものが空気以外のものだろうか?などという疑問すら持たずに、所詮信じているだけのことを当たり前の、世の理であると思い、生きているのです。
彼らにとって、神の存在というのはこのようなものではないかと私は考えています。
死後の世界があり、神が存在すること。
今吸い込んでいるものは空気であること。
この2つはどちらも当たり前のことで、どちらも証明することは難しい。
空気については、現代の科学で本気を出せばリアルタイムに吸い込んでいるものを空気と判別することは出来なくはないかもしれませんが、神の存在は証明できていません。
しかし、現代の科学で神の存在が証明できないからといって、神が存在しないことを証明したことにはならないのです。
神の有無すら証明できない、我々の科学がまだまだ未熟なだけの話です。
科学的根拠という言葉は非常に説得力がありますが、科学というのは未だ完全ではなく、世の理・因果関係を説明しきれるものではありません。
それを信じ込んでしまうのは、科学信仰と言えるのかもしれません。
追記
私は健康・医療というのは宗教に近いなとよく思います。
やはりそれも、あらゆる治療法や長寿の秘訣など科学的に証明されていなくても何となく良さそうと思い込んでしまう部分に近似性を感じているのかもしれません。
それもまた、疑はないという前提に支えられていることなのでしょう。
日本の美学 不完全さ
この国の美学の一つに不完全の美学というものがあります。
これは欧州にはないもので、なんでこんな美学が生まれたのかなと考えると、無常観に着想を得ていると思います。
千利休が不完全の美学を語り、清少納言も満月より幾分か欠けているほうが美しいと言われました。
不完全の美学といえば、よく宮大工なんかは、敢えて神社の柱を一本逆さにつけたり、一部だけ敢えて塗装を施さなかったりします。
これは、完成したものはいずれ滅びる、静かに滅びへと向かうという無常観に基づくものです。
諸説あるかと思いますが、アップルのりんごが欠けているのは、スティーブ・ジョブズが禅を学んでいたことと関係があるんじゃないかと勝手に考えています。
各国の世界創生神話というのは様々なものがありますが、日本の古事記において、日本の神々は国造りを途中で中断してしまいます。
こういった話は世界でも珍しく、古事記から見るとこの国は未完成なようです。
だからこそ、この国は成長の余地があり、完成していないからこそ滅びには向かわない。そして未完成だから美しい。そういったメッセージを感じます。
また、日本は多神教であります。古事記にも沢山の神様が登場し、人間の様に愚かな感情に駆られて失敗することもあります。
イスラムやキリストにおける創生神話は神が世界を作ったというお話ですが、日本の神様は世界ができたあとに生まれたというものです。
世界の神々に比べると愚かで無力な我が国の神もまた不完全であり、それ故に美しく、愛着の湧く存在であるのかもしれません。
偉くない
始業開始の40分前には出勤してるのですが、暇なので会社の前の道を15分だけ毎朝掃除しています。
特に誰かの為ではなく、なんとなくやってたことだったのですが、毎朝やってるうちにこれは結構自分の為になるなと思ったので続けるようになりました。
昔、東京駅の高層ビルに本社があるお客さん先に上司と訪問した時の話です。
応接室で待っていて、窓の外を見ると皇居が見下ろせました。
その時に上司が「こんなとこで働くもんじゃないよ」と言いました。
私はなんでですか?こんなに立派なビルにうちも入りたいじゃないですか。というと、
「こんな皇居を見下ろせる場所で働いたら、自分が偉くなったと勘違いしてしまう。偉くなったと思ったら人間終わりだ」と
自分が偉いと思ってしまったら、そこまでだ。もっと偉くなりたきゃ、まだまだ自分は偉くないと思い続けることが重要。
って意味に私は捉えました。
前の会社では、オフィスの掃除はどこの支店も清掃業者の方がやってくれていて、その方々は自分よりも大抵歳上でした。
掃除一つ取ってもそんな環境にいたら自分は偉いやつだと勘違いしてしまいそうだなと私は思いました。
別に会社の前の道が綺麗でも汚くてもどうだっていいんですが、まあそんなことの自戒のために毎日続けています。
特に今は勘違いしてしまいそうな扱いを受けることが多いので。
ガラス製品と命
私はガラス製品を見るのが好きです。
以前も書いたかもしれませんが、ガラスの美しさとは輝きだけではなくその儚さ、その形を保つことの難しさ、無常度の高さに起因すると思っています。
人の命は地球よりも重いと言って、かつて日本はテロリストの要求を呑んだことがありました。日本赤軍事件です。
しかしながら、人間の命というのは私が思いつく限り最も簡単に安く奪うのに73円で失われてしまうものです。
拳銃の弾丸1発73円。
戦争は人類の発明です。
武器のない時代、人が人を殺すのは大変手間の掛かる重労働でした。返り討ちにされてしまうリスクもあります。なので、相手を殺してしまうよりも物々交換の方が効率がよかったのです。
しかし、武器が発明され、少しずつ時代とともに殺人に掛かるコストも下がってきて、今や73円という時代です。
武器があれば、商売をするよりも戦争して全て奪ってしまう方が効率が良くなりました。
なので、近代までは戦争に明け暮れてきたのでしょう。
私は無常度の高いものは有難いことと同義であると思います。
ガラス製品はいつでも壊せるし、意図せず壊れてしまう脆さがある。だから、今目の前で形を保てていることが有り難く、価値がある。
人の命も同じように思います。
いつでも死ねる。生き続けることの方がよっぽど難しい。だからこそ、有り難く、価値がある。
不思議な自信
今日スピーチを無事に終えました。
前日に思い付いた掴みが我ながら見事にハマり、リラックスした雰囲気を作れたことが功を奏しました。
こないだ書いた仕事観をかなりコンパクトにまとめた内容で臨んだわけですが、その前日に父からスピーチの内容を見せろと言われたので印刷したものを渡して確認をお願いしました。
読み終わった父が「ええこと書くな」といって、自分の財布からクレドを取り出して私に渡してきました。
そのクレドには父の字で「おもしろきこともなきこの世をおもしろく」と書いてありました。
打ち合わせをしたわけでもないのに、不思議なこともあるもんだと思ったわけですが、それから根拠のない自信がより強まった気がしました。