日本の美学 不完全さ
この国の美学の一つに不完全の美学というものがあります。
これは欧州にはないもので、なんでこんな美学が生まれたのかなと考えると、無常観に着想を得ていると思います。
千利休が不完全の美学を語り、清少納言も満月より幾分か欠けているほうが美しいと言われました。
不完全の美学といえば、よく宮大工なんかは、敢えて神社の柱を一本逆さにつけたり、一部だけ敢えて塗装を施さなかったりします。
これは、完成したものはいずれ滅びる、静かに滅びへと向かうという無常観に基づくものです。
諸説あるかと思いますが、アップルのりんごが欠けているのは、スティーブ・ジョブズが禅を学んでいたことと関係があるんじゃないかと勝手に考えています。
各国の世界創生神話というのは様々なものがありますが、日本の古事記において、日本の神々は国造りを途中で中断してしまいます。
こういった話は世界でも珍しく、古事記から見るとこの国は未完成なようです。
だからこそ、この国は成長の余地があり、完成していないからこそ滅びには向かわない。そして未完成だから美しい。そういったメッセージを感じます。
また、日本は多神教であります。古事記にも沢山の神様が登場し、人間の様に愚かな感情に駆られて失敗することもあります。
イスラムやキリストにおける創生神話は神が世界を作ったというお話ですが、日本の神様は世界ができたあとに生まれたというものです。
世界の神々に比べると愚かで無力な我が国の神もまた不完全であり、それ故に美しく、愛着の湧く存在であるのかもしれません。
偉くない
始業開始の40分前には出勤してるのですが、暇なので会社の前の道を15分だけ毎朝掃除しています。
特に誰かの為ではなく、なんとなくやってたことだったのですが、毎朝やってるうちにこれは結構自分の為になるなと思ったので続けるようになりました。
昔、東京駅の高層ビルに本社があるお客さん先に上司と訪問した時の話です。
応接室で待っていて、窓の外を見ると皇居が見下ろせました。
その時に上司が「こんなとこで働くもんじゃないよ」と言いました。
私はなんでですか?こんなに立派なビルにうちも入りたいじゃないですか。というと、
「こんな皇居を見下ろせる場所で働いたら、自分が偉くなったと勘違いしてしまう。偉くなったと思ったら人間終わりだ」と
自分が偉いと思ってしまったら、そこまでだ。もっと偉くなりたきゃ、まだまだ自分は偉くないと思い続けることが重要。
って意味に私は捉えました。
前の会社では、オフィスの掃除はどこの支店も清掃業者の方がやってくれていて、その方々は自分よりも大抵歳上でした。
掃除一つ取ってもそんな環境にいたら自分は偉いやつだと勘違いしてしまいそうだなと私は思いました。
別に会社の前の道が綺麗でも汚くてもどうだっていいんですが、まあそんなことの自戒のために毎日続けています。
特に今は勘違いしてしまいそうな扱いを受けることが多いので。
ガラス製品と命
私はガラス製品を見るのが好きです。
以前も書いたかもしれませんが、ガラスの美しさとは輝きだけではなくその儚さ、その形を保つことの難しさ、無常度の高さに起因すると思っています。
人の命は地球よりも重いと言って、かつて日本はテロリストの要求を呑んだことがありました。日本赤軍事件です。
しかしながら、人間の命というのは私が思いつく限り最も簡単に安く奪うのに73円で失われてしまうものです。
拳銃の弾丸1発73円。
戦争は人類の発明です。
武器のない時代、人が人を殺すのは大変手間の掛かる重労働でした。返り討ちにされてしまうリスクもあります。なので、相手を殺してしまうよりも物々交換の方が効率がよかったのです。
しかし、武器が発明され、少しずつ時代とともに殺人に掛かるコストも下がってきて、今や73円という時代です。
武器があれば、商売をするよりも戦争して全て奪ってしまう方が効率が良くなりました。
なので、近代までは戦争に明け暮れてきたのでしょう。
私は無常度の高いものは有難いことと同義であると思います。
ガラス製品はいつでも壊せるし、意図せず壊れてしまう脆さがある。だから、今目の前で形を保てていることが有り難く、価値がある。
人の命も同じように思います。
いつでも死ねる。生き続けることの方がよっぽど難しい。だからこそ、有り難く、価値がある。
不思議な自信
今日スピーチを無事に終えました。
前日に思い付いた掴みが我ながら見事にハマり、リラックスした雰囲気を作れたことが功を奏しました。
こないだ書いた仕事観をかなりコンパクトにまとめた内容で臨んだわけですが、その前日に父からスピーチの内容を見せろと言われたので印刷したものを渡して確認をお願いしました。
読み終わった父が「ええこと書くな」といって、自分の財布からクレドを取り出して私に渡してきました。
そのクレドには父の字で「おもしろきこともなきこの世をおもしろく」と書いてありました。
打ち合わせをしたわけでもないのに、不思議なこともあるもんだと思ったわけですが、それから根拠のない自信がより強まった気がしました。
言い辛い
大抵社長というのは、営業職から出世していくのがよくあるケースです。
昔、会社の先輩とそのことについて話しました。
良い営業マンが良い経営者ではないでしょう?
という話題です。
たしかにそうだ。数字に強いだけじゃ経営者になるには力不足。ただ、営業に必要な能力と経営者に必要な能力で共通する箇所もあります。
「営業職とは何をする仕事ですか?」という哲学のような漠然とした質問に、
「言い辛いことを言う仕事です」と答えています。本当にそう思います。
社会人一年生の時、OJTでついてくれた先輩は前年のトップセールスでした。
「何でそんなに売れるんですか?」と訊くと、
「買ってって言えるか言えないかだけ」と一言。
当時は意味がわからなかったけれど、今となってはそれがどういうことなのかよくわかります。
ニコニコして誰にでも当たり障りなく接する方が生きやすいし、自分の善心も保たれます。
しかしながら、それだけでは本当に守りたいものは守れないし、獲得したいものも獲得できないと思うわけです。
ここぞというときは、図太く、言い辛いことを言えなくてはいけないと思います。
私は言い辛いことをいうことに抵抗は少ない方だとは思うのですが、それは偉大な図太い先輩に恵まれたからだと思います。
母親が「言うだけタダや」と言い、
大学で3留していた先輩が「馬鹿のフリしよう」と言い、
営業の先輩は「刺されはしないから大丈夫」と言いました。
僕自身も「言ったもん勝ちって気持ちよくはないけれど、現状世の中そんなもんだな」と感じています。
仕事観
来月、全社員の前でスピーチをする機会があり、その原文として書いておこうと思います。原文なので、あまりキレイにはまとまりませんが、後に清書する時の自分へのヒントとしてなるべく多く書いておきます。
私の仕事観とは、「おもしろきこともなき世をおもしろく」であります。
これは高杉晋作が詠んだ詩の前半部分にあたるものです。
前職の社長が「仕事なんて面白くないのは当たり前だからさ。どうやって面白くするかでしょ」と頻りに話していました。
なるほどと思い、これを実践すると会社に行くことがそこまで苦痛ではなくなるわけです。
いかに、面白くないものを面白く捉えるかは本人の思考法・アイディア次第というわけです。これをうまく使いこなすことが出来れば、より毎日は楽しいものになり、会社に行くことが苦痛でなくなるどころか、楽しくさせることすらできるわけです。
実際に私が行っていたもので一つ例を挙げるならば、
営業先で「ここは商談仕掛けられるな」と見込んだお客さんの近隣にある飲食店の一つを封印します。それは、なるべく「行ってみたいな」と思えるようなお店だと好ましいです。
封印とは「契約取れたらあの飲食店に入れる」と今行くことを封じることです。
実際に私が封印した店でゴリララーメンというラーメン屋さんがありました。
(東京都府中市にあります)
封印期間中、上司とゴリララーメンってどんな店だと思う?と盛り上がり、「ゴリラで出汁取ってるんじゃないか?」とか「ゴーゴーカレーみたいな感じでデカ盛りのラーメンか?」など様々な議論をしました。これもまた楽しい。
ネットで調べればすぐにゴリララーメンの店名の由来なんかはヒットしそうですが、そんな無粋なことはしません。
ゴリララーメンの店名の真実は、契約を取り付けて自分の目で確かめることに意味があるわけです。
この店を封印し、半年ほどかけてようやく契約に漕ぎ着け、ゴリララーメンを食べに行くことができました。
食べにいってみると、メニューは普通だし、出てくるラーメンも普通。別にゴリラの出汁ではなさそうだし、デカ盛りってわけでもない。
ただ、店主の顔がゴリラっぽかったので、「ああなるほど」と聞くまでもなく納得しました。
半年間挑み続けた謎の答えがあまりにもしょうもなさすぎて、こんな馬鹿げたことに夢中になれるのは幸せだなと思いました。
仕事ってのは、おもしろくないものをどうおもしろく捉えるかの修行だと思うわけです。
修行というといかにも苦しいものというイメージですが、私はあまり修行をマイナスイメージで捉えてはいません。
人間は本当に美味しいものは、訓練しないと美味しいと理解できない。私にとって芋焼酎は修行を経て、美味しいものになったのでよくこの言葉が理解できます。
それと同じで、人生を味わう・面白がるため、面白くないことを面白くする修行をしていると思うわけです。
-多分スピーチの内容はここまで?以下脱線-
「面白くしないと仕事できないなんておまえは不便なやつだな。仕事ってのは面白くなくても真面目に全うしなくてはいけないものだろう」と批判されるかもしれません。
しかし、私はそう思いません。
「人間に期待しない」という考えが私の根底にあるからです。
ここでいう「人間」とは他人という意味ではなく、私も含めた人類を指しています。
人間ってのはそんなに便利なものではなく、デカい大脳を持ってしまったせいで随分と不便で複雑な存在と思っています。
面白くないことを面白くないままに、夢中になって何十年もやり続ける。そんなこと、私にも他人にもできるわけないじゃないか。と思うわけです。
多くの場合、私に出来ないことは他人には出来ないし、その逆も然り。個人のスペックなんてのはそれほど大したものじゃないと思うのです。
生まれた時はみんな横並びで、そのあと個人差を作っていくのは与えられた・獲得した・選択した状況の違いだけであると思います。
もし私がスラム街で生まれていたら、今頃食べていくために何人か殺していたかもしれないなと、何の違和感もなく想像できます。
水は低きに流れ、人は易きに流れる。です。
仕事観から逸脱しますが、恋愛において恋人関係が長続きしない人というのは人に期待しすぎているんじゃないだろうかと思うことがあります。
例えば、誰でも状況によって浮気はするものだと私は思っていますし、どんなに強い愛も状況次第で簡単に失われるものです。
大事なのはそれを理解していることであると考えています。
人ってのは大したものではないのだから、過ちを犯さないよう工夫・システムを凝らさなくてはいけない。それを怠って相手を批判するのは愚かなことだと思います。話さなくてもわかるは幻想です。
運命の人なんて偶像はまさに人に期待していることへの証明ではないでしょうか。
感じてから考える
普段、自分がふと思ったこと・考えたことを忘れないうちにメモして、そのことをネタ帳代わりにブログを書いています。
何か書こうと思って、テーマを探すのではなく、
ふと何かを感じて、そのことについて少し考えを深めてみると、今まで気付かなかった関連性・類似性が見えたり、自分にとって当たり前であったことを再認識する機会になっています。
この最初の思いつき・感じ、を振り返ると、最初からある答えに結びつくことを理解していて、それは知覚できないスピードでの思考だったんじゃないかと思います。
自分が特別だというわけではなく、人間には知覚の外側に超スピードの思考力があるんじゃないかと思うわけです。
例えば、ある作業をずーっと意識してやっているとどんどん上達し、次第に何も考えずにできるようになると思います。
この何も考えずに勝手に手が動いていく状況も知覚の外にある意識に手が操作されているんじゃないだろうか?と思うわけです。