感じてから考える
普段、自分がふと思ったこと・考えたことを忘れないうちにメモして、そのことをネタ帳代わりにブログを書いています。
何か書こうと思って、テーマを探すのではなく、
ふと何かを感じて、そのことについて少し考えを深めてみると、今まで気付かなかった関連性・類似性が見えたり、自分にとって当たり前であったことを再認識する機会になっています。
この最初の思いつき・感じ、を振り返ると、最初からある答えに結びつくことを理解していて、それは知覚できないスピードでの思考だったんじゃないかと思います。
自分が特別だというわけではなく、人間には知覚の外側に超スピードの思考力があるんじゃないかと思うわけです。
例えば、ある作業をずーっと意識してやっているとどんどん上達し、次第に何も考えずにできるようになると思います。
この何も考えずに勝手に手が動いていく状況も知覚の外にある意識に手が操作されているんじゃないだろうか?と思うわけです。
「おもしろい」は話し手のマナー
ユーモア・おもしろいを織り交ぜて話をするということは、話し手としてのマナーではないかと思います。
私自身、話し手である時に気を付けていることですが、この話をあまり人にしてしまうと話すこと自体難しく考えられてしまうので自戒に留めています。
人間は自分の話を聞いてもらいたいというのが、かなり上位の欲求としてあげられると思います。
営業マンは話し上手より聞き上手の方が売れる。なんて話は有名ですし、私も一営業として「そんなの当たり前じゃん」と思います。
恋愛においても聞き上手の方がモテると言われますが、これも同じことです。
よく、講演会などで大変偉い・権威ある講師が話終わった後に「貴重なお話ありがとうございました」なんて挨拶するシーンを見ますが、実際は逆であると思うわけです。
「ご清聴ありがとうございました」が正しい形だと思います。
話し手はサービス受給者で、聞き手はサービス供給者。ってのが正しい形なのでしょう。
そこで、話し手は受給者として、供給者たる聞き手を楽しませる努力を最大限行う必要があり、それは話し手としてのマナーだと思います。
シンプルに言い換えると、
聞いて欲しいなら面白く話せ。ということです。
funnyではなくても、interestingな話が出来れば良いと思います。
私もそういう話が常に出来るよう、日々心がけています。
私はお笑いを見るのが大好きですが、あそこには話し手の極意が詰まっているように思います。幼少期は島田紳助さんの卓越した比喩表現に感動し、綺麗な比喩表現で話す練習を友達相手によくしていました。
私たちが居酒屋大好きなのは、飲み食いではなく、話を聞いてもらえる場・話しやすい場であるからなのでしょう。
酒好きと言われる人の本質は、話を聞いて欲しい寂しがり屋に思います。(決して悪いことではなく、人間の欲求として至極当然有り得ることです)
言葉にできねえ
広義の表現物に対して、言葉で評論・共有してしまうのは、侮辱的ではないかと思うことがあります。
例えば絵を描く人は、絵で表現することが自分の世界を現出させるのに適した方法であるとして描いているわけです。
その絵の美しさというのは、言葉で代替表現することが難しく、中途半端に「緑色が綺麗だ」なんて言ってしまうことは良くないことだと思います。
感想は自由なんですが、その絵自体を言葉にコンバートすることは作者自身でもおそらく難しいことでしょう。
ただ、美しいと言って、それ以上は言葉に出来ないとした方が鑑賞者の節度をわきまえているのではないかと思います。
料理人にとって、料理は一つの表現方法と言えるでしょう。
その作品・料理に対して、美味しいと評価することだけが私たち鑑賞者に与えられた節度ではないかと思うわけです。
美味しい以上の言葉に出来ないし、その味をなんとか言葉で表現したところで、その言葉を聴いた人は料理を食べる以上の情報を味わうことはできません。
料理という表現物を言葉にしてしまうことは、劣化コピーを作ることと同義に思えるわけです。
人によって受け取り方・評価の異なる表現物というものは思い出が宿りやすいような気がします。
映画・文学・絵・音楽・味。
誰もその対象物が良いものか教えてくれないわけですが、そういった物に向き合って自分の感情を見つめた時の記憶は忘れにくく、残りやすいものになると思います。
何でもかんでも言葉にできないから、私たちは実体を持って生きる必要があるのでしょう。
抽象物は、曖昧なままで良いのです。
なんでも理解できると思うことがおこがましい発想だと思います。
理解は支配であるので。
無常度
物の価値について、有限性という言葉で語っていましたが、無常度と言い換えた方が意味として美しく纏まるのではないかと思いました。
ガラス製品の美しさについて、過去書いた記憶がありますが、改めて書くと、
光を受けて輝く様だけではなく、その脆さ・儚さが美しさを際立たせるのに一番重要な要素であると思うわけです。
この儚さを、限られた美として有限性であると書きました。
今ここに美しい形で存在していることは当たり前などではなく、破壊を考えつけばすぐ様失わせることができる。そんな儚さが美の引き立て役となるわけです。
無常を感じると、ものの奥行きを感じるような気持ちになります。
最近だと、おりんの音が好きだと友人に話、なぜそんなことを思ったのか自分で考えてみました。
消えそうで消えない、響き続ける音が好きなんだと思います。
虚空にゆっくりと鐘の音が吸い込まれて、そのうち音が止んだのか止んでいないのかよくわからなくなってくるわけです。
そんな不思議な感覚に無常観を感じて、悲しいような気もするけれど、美しさも感じると思うのでした。
花火の美しさもまた、無常度の高さでしょう。
写真で見る花火に価値がないのは、その寿命の長さだと思います。
コンビニのエロ本についての時と同じで、一瞬だから価値があるわけです。
いつでも見られるものを目に焼き付けようとは誰も思いません。
無常度と呼ぶのは物によって度合いが異なるからです。
万物は無常であるのですが、写真の花火はすぐに失われることはありません。
現物花火は無常度が高く、写真花火は無常度が低い。
「線を引く」思考から脱するために
なるべく「線を引く」思考は辞めようと思っています。
線を引く思考の罪は重々承知していますが、これを脱するのはなかなか難しいものでもあります。
「線を引く」ことを好む人は確率信者だとも思えます。
線を引くとは、何かと何かを大分するという意味であり、パターン化も似たニュアンスです。
続きを読む