言葉にできねえ
広義の表現物に対して、言葉で評論・共有してしまうのは、侮辱的ではないかと思うことがあります。
例えば絵を描く人は、絵で表現することが自分の世界を現出させるのに適した方法であるとして描いているわけです。
その絵の美しさというのは、言葉で代替表現することが難しく、中途半端に「緑色が綺麗だ」なんて言ってしまうことは良くないことだと思います。
感想は自由なんですが、その絵自体を言葉にコンバートすることは作者自身でもおそらく難しいことでしょう。
ただ、美しいと言って、それ以上は言葉に出来ないとした方が鑑賞者の節度をわきまえているのではないかと思います。
料理人にとって、料理は一つの表現方法と言えるでしょう。
その作品・料理に対して、美味しいと評価することだけが私たち鑑賞者に与えられた節度ではないかと思うわけです。
美味しい以上の言葉に出来ないし、その味をなんとか言葉で表現したところで、その言葉を聴いた人は料理を食べる以上の情報を味わうことはできません。
料理という表現物を言葉にしてしまうことは、劣化コピーを作ることと同義に思えるわけです。
人によって受け取り方・評価の異なる表現物というものは思い出が宿りやすいような気がします。
映画・文学・絵・音楽・味。
誰もその対象物が良いものか教えてくれないわけですが、そういった物に向き合って自分の感情を見つめた時の記憶は忘れにくく、残りやすいものになると思います。
何でもかんでも言葉にできないから、私たちは実体を持って生きる必要があるのでしょう。
抽象物は、曖昧なままで良いのです。
なんでも理解できると思うことがおこがましい発想だと思います。
理解は支配であるので。