コミュニケーション中毒
これは、SNSに対する風刺写真であるわけですが、
私はSNS中毒というより、その本質はコミュニケーション中毒ではないかと思うわけです。
前回の記事で妻の自慢をしましたが、もう一つ妻の良いところを挙げます。
それは、一切SNSをやっていないことです。
(LINEは使っていますが、SNS的用途ではないため除外しています)
私にとって、そこはすごく重要だと思うポイントなのです。
このことを深掘りしていく前に、私の友達観についてお話しします。
・友達観
私は友達が決して多くありません。
必要ないと思った連絡先はどんどん消していきますし、付き合う必要がないと思ったら連絡を絶ちます。面と向かって「おまえが嫌いだ」と言ったこともあります。
友達が少ないなんて寂しい人生だ!と言われてしまうかもしれませんが、
「誰とでも友達」の方がよっぽど寂しいのではないかと思うわけです。
誰とでも友達は、誰とも友達じゃない。
と私は考えているわけです。
友達と他人は違います。
他人と自分は相互に関心がありません。
友達と自分は相互に関心を持ちます。
しかし、誰とでも友達ということは、他人も友達も区別がないわけです。
その境界線がないのに友達なんてのはあり得ないのです。
・コミュニケーション中毒
弱い人間ほど他人に自分の価値を決めてもらおうとしている。と思っています。
コミュニケーション中毒とはまさにそれです。
異常な承認欲求。
誰かと関わっていないと常に不安になってしまう。
という症状でしょうか?
しかしながら、他人が評価してくれるのはあくまで目の届く範囲だけであり、
自分を100%理解してくれる人なんて自分以外あり得ないわけです。
妻も両親も私のことを全て知っているわけではないので、正当な評価なんて私以外誰も出来ないのです。
こんなこと、なんら当たり前のことですが、それすら理解できていないからコミュニケーション中毒に陥るんじゃないんだろうかと思います。
他人からの評価に、いちいち丁寧に一喜一憂して、「暇そうで羨ましいなー」と思います。
弱くていい。という人がいます。
個人の自由なのでそれはいいのです。
ただ、弱さに魅力はありません。
低いところで留まることを、「自分らしさ」とか「人間だから」とかそれらしいことをいって肯定しようとする人がいます。
否定できませんが、以前も書いたように、「じゃあ求めるなよ」ってわけです。
・人との出会い
人との出会いとは素晴らしいものです。
自分の人生を大きく変える転機となることもあります。
しかしながら、出会いを求める人にいつも思うのですが、
あなたの人生を変えてくれるほど素晴らしい人があなたに関わりたいと思う素養はあるのか?と。
少なくとも、自分の価値観くらいは持っていた方がいいんじゃないのかなーと思います。
私が酒を飲む相手で嫌いな人は、
・出来事しか話さない人
・自分の価値観がない人(全肯定的)
その逆は好きな人です。