現代人は主君を欲する哀れな浪士か その2
その1の続きです。
その1では、かつて日本は自由と平等がなくても平和な時代だった。日本的主従関係とは金銭の他に忠義があり、忠義を持って生きることは幸福なことなんじゃないだろうか?と書きました。
・忠義を持つ幸せ
忠義を分解していくと、
忠:真心。嘘偽りなく尽くすこと。
義:正しい行い。人として当然の行い。公共のために尽くす精神。利害を顧みず尽くす精神。
となります。
これはもはや信仰に近いものではないかとも思います。
信仰とは、神や仏を信じ・尽くすことです。
対して忠義は、主君や主君の掲げる理想成就を信じ・尽くすことです。
「信」の対象は違えど、どちらも公益のために自らの利害を顧みず、人として当然の行いとして尽くすことを生き甲斐とする精神です。
つまり、忠義を持つ人というのは、
国家や主君の為に生きて死ぬことを理解し、
それは人として正しい行いであることを信じ、
公益の為に自らの命を使うことを選択した人です。
また、別の視点から見ると、
忠義を持つ人は生きる目的を持つ人
であるといえるわけです。
誰しも自分が何のために生きて死ぬのか意味を求めます。
そして、大切な人が亡くなった時にその死と生涯に意味を求めます。
しかし、忠義なき人生で意味を自力で見つけることは相当に難しいものでしょう。
忠義とは、恐ろしいほどの心のエネルギーでもあり、強烈な忠義を持つ人は持たざる人から見ると理解し難い行動を取ることがあります。
その行動とは自刃や特攻と呼ばれたものが当てはまると思いますが、
正しいかどうかはさておき、自らの命を使う意味を知っている人はかくにも恐ろしいパワーを持っているというわけです。
忠義を持つ幸せとは何か?
自分の人生の意味を知っている。
だからこそ、堂々と、迷わず生きて迷わず死ねる。
自分の生きる意味を知らず求めずにフラフラと生きているより、
自分の生きる意味を知って堂々と生きている方が幸せではないかと私は思います。
・自由と平等の対価
その1で書いたように、明治以降自由と平等を手に入れました。
前回、自由と平等は日本人を幸せにするかは疑問だと書いたのは、代価として忠義を失ったのでは?と思ったからです。
自由と平等が日本の世に徐々に浸透していったように、忠義も徐々に失われていったのではないかと思うのでした。
かつて奴隷たちは自由と平等を手にし、人権を得ることができました。自分たちを人にしてくれた自由と平等を敬愛することは当然のことです。
しかし、日本的階級社会においては奴隷身分は存在せず、人民や家臣には人権が備わっており、忠義を持つことで生きる意味を持っていた日本人に自由と平等を与えても、ただ忠義を失わせて生きる意味の剥奪という結果になってしまったのではないのか?と思います。
・忠義の矛先
階級制の廃止は人々から主君を奪いました。
何らかの理由で主君を失った武士のことを浪士と呼びますが、
階級制の廃止は、見方によっては国民総浪士化とも見て取れるのではないのでしょうか?
主君というのは、とても分かり易い忠義の対象であったわけですが、それを奪われてしまうと忠義の矛先を奪われることになります。
それがつまり、生きる意味を剥奪される結果をもたらしたのではないかと思います。
その3へ続きます。