現代人は主君を欲する哀れな浪士か その1
以前、芥川龍之介状態と呼んだ、漠然とした将来不安を抱える人について書きました。
このテーマに新たに思うことがあったので、書いておこうと思います。
芥川龍之介状態というより、現代浪士なんて呼んだ方が適正かもしれないと思うわけです。
・江戸はユートピアか
かつて日本には身分制度があり、主従の関係がありました。
そして明治政府設立時に、四民平等となり身分制度が廃止されました。
身分制度のあった時代を振り返ってみると、「なんと不幸な時代だったのだろう」と思ってしまいませんか?
出自で将来が決まり、身分を努力で覆すことなど殆ど不可能で、結婚も恋愛も自由ではない、命の重さすら平等ではなかったわけです。
しかし、本当に不幸な時代だったのでしょうか?
江戸時代は日本史上、260年という最も長く戦争のない平和な時代であったわけです。
世界史をみても、これほど長く平和が続いた国は存在しませんでした。
260年の平和という結果をみると、とても不幸な時代であったように思えないのです。
確かに身分制度があり、出自で人生が決まり、自由でも平等でもありませんでした。
しかしながら、主君仕えることが私には不幸なことに思えないのです。
そして人民もそれほど不幸に感じなかったからこそ、これほど長く平和な時代が続いたのではないかと思うわけです。
・自由と平等っぽいものを獲得した近現代
明治以降、自由と平等が入ってきました。
とはいえ、昨日まで士農工商の身分で分けられていた人民が、いきなり四民平等なんていわれてもなかなか馴染めず、初めは摩擦があったりしたようです。
たしかに、一つ年上の先輩が留年して同級生になっても、4月からいきなりタメ口をきくのは少し憚られます。
多少の摩擦はありながらも、時間を経て徐々に自由と平等が日本の世にも浸透してきました。
さて、自由と平等は西洋文化であると私は考えています。
自由と平等が謳われるようになったのは、奴隷文化に対するアンチテーゼであり、日本国は世界的には稀有な奴隷文化に馴染みのない国でした。
自由と平等がなくても平和な時代を送れていた日本に、自由と平等を持ち込んだのは正しかったのだろうかと思うわけです。
奴隷文化圏からみると、日本的主従関係は理解し難いもので、なんと時代遅れな国だろうという思いから、持ち込まれたものではないだろうかと思っています。
奴隷解放的に四民平等が行われ、かつてはなかった自由と平等を手にした日本人。
しかし、そんなものなくても幸福な時代を送っていた我々が手に入れたのは、
自由と平等ではあっても幸福ではなかったのかもしれないのです。
自由と平等は世界の奴隷身分を幸福にした文化だとしても、日本人を幸福にする文化ではないのかもしれない
と思います。
・御恩と奉公 = give and take?
日本の主従関係は御恩と奉公と呼ばれるものでした。
英訳するとgive and takeとなりますが、日本的主従関係はgive and takeだけでは説明がつかない家臣の気持ちの要素も大きく関わってきます。
それは忠義です。
忠義とは、利害の外側にある主君への真心であり、忠誠心であり、尊敬であるわけです。
単純に戦力の話で、忠義を持つ武人は強く、忠義のない武人は弱かったのです。
これに加え、私は忠義を持った生き方は農民であれ幸福だったのではないかと思うわけです。
・傭兵と国民軍の戦力
マキャヴェリが戦術論の中で傭兵と国民軍の違いを以下のように説いています。
傭兵は金銭のみの主従関係である為、自らの命を擲つことはないが、
国民軍は金銭に加え、愛する家族・国家を背負って戦う為、命を擲つことすらできる。
つまり、傭兵と国民軍では背負っているものが違うので、仕事(戦争)の本気度が違うってことをいっているわけです。
これを日本に置き換えてみると、忠義の有無が傭兵的武士と国民軍的武士の境目であったといえるわけです。
その2へ続きます。