inconvenience欲求 その2 欲しがりません勝つまでは から脱した時代の空気
こちらの続きです。
前回も書きましたが、便利主義であった近代的価値観とは、便利が正義・不便は悪であるという物の捉え方です。
しかし、不便を求める欲求が出てきていることで、便利=正義の図式を疑う必要が出てきました。
そう考えるに至った今、私が感じていることは、
便利=正義
不便=悪
ではなく、
便利=質素
不便=贅沢
なのではないか?と思うわけです。
質素とは、飾り気がなく倹約な様であり、場合によっては禁欲的ともいえるわけです。
例えば、同じ品数の商店街とスーパー。
どちらを維持する方が社会にとってコストが掛かるか?
もちろん、土地や働く人の数を考えると、商店街の方が圧倒的にコストが掛かります。
しかしながら、肉のプロフェッショナル・野菜のプロフェッショナルから直接物を買うことが出来るのは贅沢なことであるわけです。
前回も例に出した、価格の同じ十徳ナイフとシンプルナイフ。
価格という面で見れば同じですが、十徳ナイフの方が多機能である為、
機能数で割り算するとナイフ機能単体のコストは下がります。
もしくは、シンプルナイフに十徳ナイフと同じ爪やすりや、コルク抜き等を買い足していくと、シンプルナイフの方がコストが掛かります。
ここでの贅沢は前回触れた単機能美です。
物を切るという一点の目的に研ぎ澄まされたデザインのナイフには美しさが宿り、その美しさを味わえるのは贅沢なことです。
と考えてみると、不便は贅沢であり、便利は質素であるといえるわけです。
さて、このように分解してみて、今度は何故このような時代逆行的な流れが生まれたか。
一言でいうと、贅沢が許される時代になったのではないかと思うわけです。
許すといっても贅沢許可担当者がいるわけではなく、日本国民の潜在的な意識と景気によるものです。
贅沢と聞くと、少し罪の意識を覚えてしまうような気がしませんか?
反対に、質素な生活を送ることは偉いことである。金を使わない・値切る・価値ある物を安く買うことは良いことであるような気がしませんか?
この意識は、歳を取った方のほうが若い人よりも顕著にあると思います。
「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」
なんて言葉は皆さんご存知のことと思いますが、終戦から70年以上経った現代では歴史の知識の一部であり、体験・体感した方のほうが少ないはずです。
この言葉が日本から存在感を消したのはバブル期です。
日本中が贅沢三昧の時代でした。
そこから再び「欲しがりません勝つまでは」が掲げられる時代に突入します。
バブル崩壊です。
ロストジェネの方々は「ぜいたくは敵」マインドを否応なしに持つこととなりました。
そして失われた20年が明け、再び「欲しがりません勝つまでは」の存在感が薄れてきていると思うわけです。
戦時中においては、
質素=正義
贅沢=悪
という便利主義に通ずる質素主義だったわけです。
そのことから、
便利=質素=正義
不便=贅沢=悪
となって、便利主義が近代の思想になったのではないかと思います。
贅沢に対する罪の意識が軽くなってきている
といえば分かり易いでしょうか?
しかしながら、贅沢とは罪ではなく、質素も偉いことでも何でもないわけです。
むしろ良い物を安く買おうとする心理においては、デフレを脱却しきれない今の日本の足を引っ張っている一つの要因であるとすら思います。
(良い物を安く買う心理と質素は意味合いが異なるので、質素=悪という意味ではありません)
罪が軽くなれば、あとは本能に従います。理性で抑える必要もないのです。
冒頭に「質素は禁欲的」と書いたのもこの為です。
現代においては「贅沢な暮らしを送りたい!」と公言しても、誰にも怒られないわけです。
そして多くの人も同様に「贅沢な思いをしたい」と声に出さずとも思っているはずです。
となると、人々の心の動きに一番敏感なビジネス界に贅沢な専門店ブームが起こることは自然な流れに見えてくるわけでした。
長くなってしまったので、以下にまとめておきます。
まとめ
①専門店ブームを見て、不便を求める流れを感じる
②不便を求めるとは、近代の便利主義から脱した欲求だなぁと思う
③でもkindle買った理由を振り返ってみたら、自分も不便さを求めていたと気付く
④不便な物には美しさが宿るというニュアンスで単機能美なんて言葉を連想した
⑤よく考えてみたら便利=質素 不便=贅沢ってことだ
⑥戦時中の「ぜいたくは敵だ」マインドから抜け出した時代の空気がある
⑦贅沢を求めることが罪じゃない時代に生きていられるのは幸せなこと